“熱源”人材 - NETSUGEN JINZAI

愛媛

海は、生きる全て。

人間力で人を呼ぶ、“島のお父さん”

田中 政利

MASATOSHI TANAKA

PROFILE
生年月日
1946年7月13日
主な活動エリア
忽那(くつな)諸島、主に怒和島(ぬわじま)
まつやま里島(りとう)ツーリズム連絡協議会会長。松山市怒和島出身。
ミカンやタマネギ栽培を中心に半農半漁の暮らしを営みながら、忽那諸島の観光振興に携わる。2005年の市町村合併の頃から島の活性化に関わり始め、松山離島振興協会の初代会長を務めた(現在は理事)。子どもの育成にも熱心で、地元はもちろん県外からも多くの子どもたちを受け入れて海の魅力や恩恵を伝えている。

海を語り島を語り、地道にファンを増やす。それが使命

大の男に「あの人はまさに海。海のように広く、深く、一度会えば惚れる!」と言わしめ、都会から「あの人に会いたい」と遠路はるばる離島まで足を運ぶ人が後を絶たない。
そんな人物が、忽那諸島の怒和島にいます。
田中政利さん、御年74歳。(※2021年5月現在)
「この島に人を呼ぶのが私の仕事なんです」と穏やかに笑う、ホスピタリティあふれる“海の男”です。

 

瀬戸内海、愛媛県松山市沖にある忽那諸島は、9つの有人島と多数の無人島からなります。有人島の一つ、怒和島は忽那諸島で3番目に大きく、人口は約350人。島の主な産業は柑橘栽培を中心とする農業と漁業で、田中さんもミカン農家に生まれました。

「子どもの頃からミカン何十kgと背負って急斜面を往復していたので、身体はすごく丈夫になりましたよ。農家と言っても釣りや潜りは当たり前で、海との付き合いは日常です。しかも目の前に国際航路があったから、物心ついた頃からよく船を眺めていました。嵐の時には風待ち、潮待ちの港になって、色んな船が来る。それを見て想像力が育まれ、世界の広さをイメージできましたね」

 

田舎の離島に暮らしながら、国際的な視野がおのずと養われる環境で育った田中さん。
松山の農業高校を卒業後、1967年に国が派遣する農業研修生としてアメリカのカリフォルニアで1年間過ごしました。各県から集まった約100名の同期たちと異国で寝食を共にし、ハードな農業実習に勤しむ日々。そこで生まれた濃い信頼関係と全国規模のネットワークは、今に至るまでずっと活きていると言います。

帰国後は、家業のミカン栽培の傍ら、ゴカイ養殖の事業化に成功。人脈を活かして大阪の水産試験場(※当時)の支援を得たり、ゴカイの餌を横浜から調達したりと、地方の離島というハンディキャップを物ともせず島の産業発展に貢献しました。

「帰国して4年間は九州にいましたが、25歳の頃に島へ戻りました。思い返せば、この時に初めて“島に向き合った”という感じ。ここが自分のふるさとだ、この海を丸ごと活かして生きよう、って決めたんですね。で、ミカン栽培の他にも何かしようと。島の環境を活かせて、初期投資が少なくて済む、まだ他でやっていないことをあれこれ考えて、ゴカイ養殖をやりました」

 

第一次産業に加えて、島づくりや観光振興にどっぷり関わるきっかけになったのは、2005年の市町村合併です。
同年1月1日、それまで中島町だった怒和島は、他の島々と共に松山市に合併。田中さんを含む各島の島民や関係者が集まって忽那諸島の活性化策をまとめ、当時の市長へ提言を行ったことがきっかけで、2006年3月に自主活動組織「松山離島振興協会」が設立されました。その初代会長が田中さんです。

島に必要なのは交流だ!との提言にもとづいて開催されたのが、2010年の「松山島博覧会(しまはく)」。
自然や食、伝統文化など、島ならでは良さをありのままに感じてもらうイベントで、島ウォーキングや島めし弁当、農漁業体験など94ものメニューを実施し、約2万人が参加しました。
この取り組みを一過性で終わらせないために2011年に立ち上げられたのが、「まつやま里島(りとう)ツーリズム連絡協議会」。当初から現在まで田中さんが会長を務めています。

「しまはくをやってみて、自分たちの島にはこんなにも人が来て喜んでくれる、すごい地域資源があるんだということを確認できた。それを活かして交流を続けるしかないと。それで、訪れる人にとって“第二のふるさと”になれたらいいなという想いを込めて、『りとう』でも離島じゃなくて里島に換えて、『里島(りとう)めぐり』というツーリズム活動を本格化しました。しまはく以来、毎年多くの方が来島してくれています。2020年からはコロナのせいで激減していますが…早く状況が良くなることを願うばかり」

 

「海にはね、子どもを育てる力があると感じています。そして、海の素晴らしさを後世に伝えるのも子どもですよ。だから宝物」

島外から多くの子どもたちを招き入れ、島の子どもとの交流やさまざまな体験学習の機会を作っているのは、「楽しい思い出を作って島を好きになってほしい」のはもちろんのこと、「荒々しい海を感じることで、強く賢くなってほしい」という願いもあります。

「例えば、干満の仕組み。座学で教えても何も興味を示さないんだけど(笑)、島へ来て、実際に潮の満ち引きの様子を目の当たりにすると、彼らは全身で食いついてくる。大潮(干潮と満潮の差が最大)の日の潮の流れや、冬の最大干潮の時に現れる岩礁。月の動きに連動して姿を変える海は不思議に満ちていて、宇宙のサイクルは本当にすごい。そして私たち人間にも『海の暦』に合わせて潮を読み、釣りをする知恵がある。こういうことを子どもたちに体感させることで、ものすごく成長するんです。海水浴も楽しいでしょうけど、海の魅力や恐ろしさ、海と暮らす本当の面白さを味わうには、島に来るのが一番。同時に海の大切さも分かるから、海にごみを捨てちゃいけないとか、そういうことも腹に落ちるんです」

 

呼びかけ、繋がり、受け入れる。心を尽くして島の良さを伝える。そんな田中さんに会いに、多くの人が怒和島を訪れます。
東京で行われた講座「丸の内朝大学/ニッポン再発見クラス忽那諸島へ島留学!編」で講師を務めた田中さんのファンになり、それをきっかけに島へ通い続けている女性グループもいます。

ところが島には宿がありません。泊まるのは、「電気の家」という名の一軒家。田中さんが個人的に管理しているゲストハウスで、なんと宿泊代は無料です。曰く、「ちょっと貸しとく感覚。お金で返さなくていいから、いつか力を貸してください、という感じ」。

温かいもてなしに魅入られて再訪する人も多く、移住はしないけれども島を愛し、ゆるやかに関わりながら、自分なりの方法で島の役に立ちたいと願う人たちがどんどん増えてゆくー。いわゆる「関係人口」です。

「つながりは大きな力になるということを、自分の実体験で知っているからね。観光も大事だけど、私の使命は地道に関係人口を増やすこと。それこそ島の生命線になる。忽那諸島は若者の減少が止まらない。第一次産業だと『せとか』などの稼げるブランド柑橘もあるし、養殖の『ぼっちゃん島あわび』もあるんだけど、肝心の後継者がいない。相変わらず課題だらけです。でも、良いところだって相変わらずある。諦めずに、私は私にできることをやる。コロナが収束してからになるけど、もっともっと島に遊びに来てもらって、島のファンを増やす。外と繋がって想いを伝え続けることで、いつか好転の芽が出るはず」

「私はただ使命を果たすのみ」と静かに語る“海の男”。
取材の数日後、筆者宅に届いたのは箱いっぱいの怒和島のミカン!
田中さんに惚れた女がここにも一人…(関係人口はこうやって増える)

★ 編集後記 ★ 実はこんな人!

何年か前、ブラジルから来た80歳の友人がスマホでLINEを使いこなしていたのを見て自分もやってみた田中さん、今ではLINEのヘビーユーザー。はたまたSUPを乗りこなす若者を見て自分も挑戦してみたり…。「わしはスーパーじじいになる!」という名言も。

自分を海の生き物に例えると?

「分からない…。海と一体化しすぎてて…」

これも名言です。海の恵みを丸ごともらいすぎたらしい…