有明海の干潟は“新しい里海”を目指したい
九州は島原湾の湾奥、佐賀・福岡・長崎・熊本の4県に囲まれた有明海には、日本最大の干潟が広がっています。
太古の阿蘇山の大噴火で噴き出た泥が堆積し、潮の流れで常に泥がまき上げられているために、海が茶色く見えるのが有明海の特徴。干潟の広さは大潮の干潮(海面が最も低い状態)で約188km2に及び、これは日本全国の干潟の総面積の約4割にも相当します。干満差は6m以上とこれまた日本一で、干潟で暮らす珍しい魚、ムツゴロウの生息地や、渡り鳥の飛来地としても知られています。
海なのに茶色くて、環境が特殊なことから独自の生物相をもつ、生物多様性の宝庫。
その有明海で、干潟の研究に取り組んでいるのが藤井さんです。
佐賀の前には広島や愛媛で、瀬戸内海の環境変動について研究していたという藤井さん。
中でも、海が真っ白になるほどクラゲが大量発生して漁業にも悪影響を及ぼす問題を解決すべく、そのメカニズムの解明に心血を注いでいました。
「ミズクラゲやエチゼンクラゲの集群は、漁業の邪魔になったり養殖の稚魚が食べられたりするので厄介な問題。その大量発生を予測・制御する研究は今も続けています。…というか、クラゲは実は趣味に近くて(笑)クラゲ愛好家としてハマり続けてます。佐賀大学へ移ってからの主な研究対象は、やはり有明海の干潟です。そして、住民へのインタープリテーションの試みを意識していますね」
インタープリテーションとは。
直訳すると「通訳」ですが、環境学習などの場では「自然を解説すること」という意味です。と言っても情報や知識の単なる伝達ではなく、裏にあるメッセージを伝えたり、相手の興味を刺激することを伴う教育的なコミュニケーションのことで、エンターテイメント性も重要な要素。
藤井さんが自ら『干潟博士』と名乗って活動するのも、その一環というわけです。
「瀬戸内海の研究をしていた頃から、研究の成果を住民さんに伝える難しさを痛感し、模索を続けていました。佐賀大学は特に有明海に関する情報発信に熱心に取り組んでいるので、科学インタープリテーションに挑戦しやすい環境です。僕自身が『干潟博士』になって住民と一緒に干潟調査したり、クラゲの解剖とクラゲ料理の試食会をしたこともあります。すべて、地域の皆さんにもっと海に近づいてもらいたいという想いからですね」
ただ、研究者として伝えたいことを理解してもらうのが非常に難しい場合もあります。
有明海はかつて“宝の海”と呼ばれるほど水産資源が豊富でしたが、1997年に西側の諫早湾が干拓されて以後は、干潟の減少や潮流の変化等により赤潮や貧酸素水塊(=水中に溶けた酸素量が魚介類が生存できないくらいに低下してしまった水の塊)が頻発。養殖する海苔の色落ちや、タイラギ等の二枚貝が減少するなど、漁業環境が悪化しました。
藤井さんは、「有明海を元通りに再生しよう、と言う人が多いけれど、研究者としてそれは違うと言わざるを得ない。海はもう元には戻せません」と断言します。
「地球環境の変動の中でさまざまな条件が変わってしまっているのだから、海は元には戻らないんです。環境の改善や水産資源の回復を図るための研究はもちろん必要ですが、海を『どう戻すか』よりも『変化にどう対応するか』という視点で考えたい。長期的に見て、これから養殖業などの水産業がどうあるべきか、沿岸域でどう暮らすか、海との新しい付き合いかたを我々は模索していかなければなりません。そういう意味で、研究者の間の共通認識として今後のキーワードは『再生』ではなく『創生』なんです。そのことを漁師さんや住民さんにどう伝えるかはとても難しい。日々葛藤です」
藤井さんが2021年度に取り組むのは、干潟の耕耘(こううん)の実証実験です。
有明海は、何もしなければ単なる泥の海ですが、明治時代からアゲマキ(※今では絶滅が危惧されている二枚貝)の養殖、昭和になってからは海苔養殖と、上手に利用されてきました。
昭和40年代までは、漁業者だけではなく普通の住民も、おかずのアゲマキを採るためによく干潟へ行っていたそうです。言わば、地域の住民が踏み入ることで干潟の泥を耕してきた、“里海”。
「その営みを今こそ見直したい。遊びでも釣りでもいいからもっと干潟に入って、干潟を感じようよ!という発信をしたいです。干潟にあまり入らないと有機物がたまってヘドロになり、海は酸欠になる。海水や泥の酸素が少ないことを貧酸素と言って、臭くて“海が腐る”ような状態です。当然、生き物が住みづらくなります。でも人が入って耕せば、酸欠が解消されて、減少してしまった生き物の復活につながるかもしれません。我々人間も、有明海の沿岸で暮らす生き物の一種なんですから、干潟に入って泥んこになろうよと(笑)。それに意味があるんだということを、分かりやすく面白く伝えていきたいですね」
住民が海と密に関わり合う、そんな在り方を目指す干潟博士。
研究や調査はもとより、“新しい里海”のイメージをみんなで共有できるようなインタープリテーションに、知恵を絞ります。